第1に、法制史学の最も主要な伴走者である所の官学アカデミズム国史学について、(あ)従来不明の儘であった成立を、三上参次に着目して明らかにした。具体的には、三上ら官学第1世代の歴史家は、その方法論に於いては、田口卯吉等の文明史や、徳富蘇峰ら政治評論家による明治20年代の史論の方法に汲んでいる事、その方法論的観点から、漢学系の修史館史学社を批判した事を明らかにした。(い)官学アカデミズム史学は、明治30年代の後半に、哲学・宗教学からの方法的示唆を得て刷新され、世代交代した。具体的には、新しい第2世代の国史家は、或る時代の歴史的事実は、須く同時代の社会通念に照らして理解し、批評さるべしとする、文化史(Kulturgeschichte)の方法を採用したのである。この文化史の方法を、国史家が大々的に展開した場が、明治44年の南北朝正閏論争であった。(う)上記の世代交代の背景には、歴史教育を通じて養成さるべき国民像の相違があったことも明らかにする事が出来た。すなわち、第1世代の国史家は、明治20年代に流行したヘルバルト派教育学に棹さして、善行美事の早期刷込教育による、当り障りのない良き市民を養成しようとしたのに対して、第2世代の国史家は、明治30年代以降の哲学界・教育学界に於けるヘルバルト派批判に乗じ、悪の存在を知った上で、その悪を捨てて善に就くような主体性を児童に求めていたのである。彼等が南北朝正閏論争で南朝正統論を唱えた理由の1つはここにあった。 第2に、法制史学は、中田薫以来、官学アカデミズム史学第2世代と同様の文化史の方法を我が物としていた事を明らかにした。その上で、歴史研究を通じて法体系の部分的修正を図る自由法学的な法制史学者が法科派、法体系の全面的更迭を企図する社会法学的な法制史学者が文科派に分裂した事を明らかにした。
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