初期のドイツ民主共和国では、社会主義統一党及びそれにより指導された国家官僚制が、マルクス主義的な法学研究者養成、大学人事、雑誌を中心とする出版のコントロール、教科書政策、法学に関する大規模なカンファレンスの開催等の手段により、国家・社会のラディカルな社会主義化に資する法学の樹立に努めたが、弁証法的唯物論に定礎された法学理論の形成と、極めて具体的な社会主義政策実現のための実用的な法理論確立という目標を同時に達成することは困難であり、法学は常に批判の対象たり続けた。そのため、歴史学と異なり、国家消滅後も評価される成果を残すことができなかった。
|