熊本藩が制定した「刑法草書」が他藩及び幕府に与えた影響を法制的かつ歴史学的に検討してきた。そこで「刑法草書」の成立過程を見直すとともに、法典としての性格、さらに、画期的な刑罰とされる徒刑に着目して、制度と実態の双方から分析した。 刑法草書は中国律の影響を受けて制定されたと従来の指摘があるように、本調査でも同様の結果がみられた。これに加え、刑法草書が成立してからも、中国律(明律・清律)を併用する熊本藩刑法方役人の動静を確認できた。刑法草書の成立が熊本藩法制の一画期となったことは言うまでもないが、対応できない事案などには中国律を併用する体制にあったことがわかった。 法典としての性格を探るため、最後の編纂物とされる明治期の刑法草書の分析を行うと、熊本藩は幕末に至るまで「刑法草書附例」を編纂しており、あらゆる判例収集に努めている。また、明治政府も刑法草書を参考にするなど、近代刑法の確立に熊本藩法制が影響を与えていたことが確認できた。 近代的自由刑と評価される徒刑は、佐賀藩や会津藩などで導入されており、幕府が設けた人足寄場の参考にもされている。これらの地域では、熊本藩よりも運用効率が高められたものも見られるなど、独自の動きが確認できた。具体的には刑期の等級にあらわれているが、あわせて支配者側の仁政が強調されている。ただし、徒刑が十分な成果を挙げていたとは言い難く、全てが更生に至っていない状況もわかった。 以上のことから熊本藩法制の実態を他領へ影響を射程に、法的かつ刑罰から明らかにしていった。近世国家として共通して確認できる中国との影響を受けながら熊本藩法制は築かれていた。また、他藩にも参考されているものの、その精度を上げて独自性が強調されて導入するなど、当時の近隣諸藩との関係も詳らかにできた。幕府や諸藩に影響を与えていた熊本藩法制は、刑政観の変容の中でその意義を高めていったのである。
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