最終年度については、1963年から1972年までの約10年間に焦点をあて、日本におけるテレビ共聴からCATVへの展開について、包括的な歴史記述をおこなった。この時期、地方で独自に自主放送をおこなう共聴施設が現れる一方、東京では高層ビルが原因の難視聴が問題化していた。1968年には新宿で営利法人が有線による再送信事業を始め、その是非をめぐる論争が巻き起こった。法整備が後追いで進んでいくとともに、未来学的な有線都市論が盛り上がりをみせていく。地方の共聴施設による自主放送の現実と、有線放送の実現という理想がせめぎ合うなかで、1972年には有線テレビジョン放送法が成立し、CATVの将来像が輪郭を成していった。こうした経緯を初めて、メディア考古学的な視座を踏まえて再検証したことに、本研究の独自性がある。 研究期間全体を通じては、1963年から1983年までの約20年間に焦点をあて、日本におけるCATVの自主放送をめぐる思想と実践の多様性を明らかにした。とりわけ、1970年代におけるビデオ・アートとの接点を見出したことに、本研究の大きな特色がある。本研究では、CATVが産業的に確立するまでの前史を描くのではなく、「コミュニティメディア」や「地域メディア」の萌芽を遡及的に発見するのでもなく、1970年代前後のCATVに現在とは異なる可能態が認められることを明らかにした。具体的には、静岡県の下田有線テレビ放送や東伊豆有線テレビ放送、岡山県の津山放送などに焦点をあて、雑種性や先鋭性をともなっていた草創期の自主放送を、日本における限界芸術ないし市民表現のあり方のひとつとして再評価するとともに、メディア論的思考の系譜に連なる実践として捉え返した。
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