本研究は、日本の敗戦から1950年代を主たる対象時期として、旧植民地からの引揚や「戦後開拓」に着目し、この時期における政府・北海道による「開拓」「開発」政策の変遷をおさえつつ、その下で移住した人びとと小学校の関わりや子どもの実態を明らかにすることを目的としている。昨年度は、敗戦から1950年頃までを対象に、札幌と函館の都市部に移住した引揚者等が子どもたちの学校教育にどのように取り組んだのか、その際、教員はどのような対応をしたのかを明らかにした。 本年度は、「北海道総合開発計画」の前期5年に相当する1952年から1956年までを対象時期として、戦後開拓と学校との関係性を明らかにすることを目的とした。既に、国後からの引揚者が移住した漁業地(奥尻町)、および樺太からの引揚者が移住した農業地(枝幸町)を分析したため、本年度は、樺太、満州という旧植民地からの引揚者と、東京、大阪等、国内各地からの移住者が入植した農業、酪農地域(浦河町)を対象に分析した。移住した人びとは、開拓事業に着手すると同時に、子どもたちのための小学校および中学校の設置に着手した。旧厩舎を仮校舎として単級学校の小学校および中学校を併置した。移住した人びとには、子どもの将来を学校教育に託すという思いがあったのである。 地域では、すぐに青年会が発足し、農業に関する研修と共に娯楽としての催しを開催する役割が託された。教員は、青年会の各種催し物の指導に携わり、また、発足した母親学級を婦人会に改組している。地域社会の主立った会合等は学校を会場として開催されており、教員も青年会や婦人会にかかわり、人びととの交流を重視していた。戦後開拓地において、新しい地域社会を形成する過程では、学校という場が地域の主立った会合の場となり、教員は人びとにとって新たな地域社会の形成を支援する必要な存在として認識されていたことを明らかにした。
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