「北海道総合開発計画」後期5年(1958年~1962年)を対象時期として、農業地および漁業地における、いわゆる「戦後開拓」が実施される中で、そこに設置された学校の特徴や、地域にとって学校がどのような存在であったのかを明らかにした。この時期の北海道は、1953年頃から5年間連続する冷害凶作から、いかに脱出し生活を安定化させるかが課題だった。オホーツク海沿岸部地域における被害が大きく、特に被害の度合いが大きかったとされている雄武町を対象に分析を行った。 雄武町は、1964年以降、「戦後開拓」を目的に京都、宮城、樺太、秋田等からの移住民による入植を契機に、人口が増加していった地域である。冷害凶作期においては、欠食児童が増加し、児童が労働力として期待されたため、学校の授業が短縮されたりした。このような状況に対して全国から救援物資や義援金が送られてきたりしていた。学校が唯一の公共施設であったため、救援物資の配給は学校で行われ、地域の連絡網であった有線放送の本機が学校におかれ校長が連絡係を担ったりもした。成人式や結婚式、新年会も学校を会場として実施され、教育委員会は巡回映画を学校で上映し、学校は人びとにとって娯楽の場でもあった。給食設備を整えるほどの予算はなかったが、雄武町は北海道の学校給食協会と契約しパンを子どもたちに配給したりした。地域では「家族計画」がすすめられ、畑作から酪農へと産業構造を替えて、生活の安定化が図られていった。 地域が危機的状況から脱出する過程において、学校は子どもの教育のみならず、文化向上のためのセンターとなり、また子どもの栄養補給を行ったり、人びとに癒やしを与えたりする役割を担ったりしたのである。
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