九州における彫物の技術・意匠の伝播のルートのうち、熊本県湯前町・多良木町・あさぎり町で活動が認められた彫物師・賀吽による「関東常州」からのルートを裏付けるべく、国、県、市町村指定レベルの建造物(厨子や須弥壇を含む)や工芸品等を調査した結果、真言宗・雨引山楽法寺(茨城県大和村)の初代山主吽永は、応永21年(1514)に、村上山観音寺二世の大阿闍梨で、その名も吽賀という僧から附法を受けていたことが判明したが(「天引山楽法寺山主略伝」楽法寺所蔵)、熊本で賀吽が活動したのは天正期で、時代的にも離れていて対応しない。しかし管見の範囲では、「吽」の字をその名にもつ僧は、この地方では真言宗の吽賀の法統につながる者しかおらず、やはり時代は降るものの賀吽も彼の法統に連なる僧であった可能性は高い。そうすると江戸時代の関東で極めて有力な彫物師であった嶋村家の2代嶋村円鉄(哲)がこの楽法寺の僧で、現存・本堂の彫物も手掛けていることを合わせて考えると、賀吽の意匠や技術は、熊本にもたらされるとともに江戸時代の関東で有力な彫物師・嶋村家にも受け継がれた可能性が出てくる。 大分県においては、近世初期から柞原八幡宮南大門(元和9年1623)の小壁彫刻や花鳥の彫物(5尺×1.5尺)や、祇園宮(現・八坂神社)楼門(寛永元年 1624)に大型のパネル状彫物の使用が文献上認められていたが、今回、霊山寺山門(大分市 元和9年)の初層の腰羽目等も大型で、当初の彫物である可能性があると判断された。この地域に大型パネル状彫物が現れる過程については今後も検討が必要である。鹿児島県の「龍柱」については霧島神宮本殿(正徳5年 1715)の例が最も古く、宮崎の一部に龍が巻き付く柱を使用する例はあるものの、瑞雲を伴う鹿児島のものとは異なっているから、今のところ霧島神宮本殿で採用されたものが鹿児島各地の神社で採用されたとみなせる。
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