中世後期にはイタリアもゴシック様式を受容したが、それは他のヨーロッパ諸国とは異なって、中世フランス・モダニズムを受け入れたわけではなく、それらを折衷主義的に導入したと一般的に理解される。ゴシック建築史の碩学パウル・フランクルは『ゴシック建築大成』の中で、イタリアへの拡散」に関していままでの通説を補強・発展させる論説を展開したが、イタリアにおけるゴシック受容の手法を単に"eclecticism"という用語で総括するのは些か乱暴であり、むしろ意図的混淆syncretismと呼ばれるべきであると私は考えた。 本研究ではフィレンツェにおける後期ゴシック建築を詳細に調査することで、フィレンツェにおけるゴシックの受容は、ゴシック様式と伝統様式との意図的混淆であることを明確にすることが論点である。いままでの研究においては、ベイ・システムや垂直部材の線条性という、中世フランス・モダニズムの建築言語とその構成法は、中世イタリア建築の敬虔な歴史的古典主義の中では受け入れられず、あくまでも折衷的なアプローチによって部分的に合目的に受け入れられたと考えられている。しかし、中世イタリアでは為政者の統一的趣向によらずに、他の都市国家にはない建築が要求されたのである。中世フランス・モダニズムの純粋主義と方法的には対極にあった。フィレンツェのゴシック受容において少なくとも3つの位相を確認することができた。フランス風を強調するフランス人教皇・為政者のコードとして、あるいは表面的な世俗的コードとして、その反対にトーディのサン・フォルトゥナート聖堂やフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂などのドメニコ会聖堂においては深遠な精神的モードとして受容されたと考えるべきであることを明確にした。
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