分子性物質のスイッチング温度や挙動の自在制御は、スイッチングのメカニズム解明という基礎的な面からもそれらの応用の観点からも重要な課題である。本研究では、遷移金属錯体の金属イオンのスピン状態が低スピンと高スピンとの間でスイッチングするスピンクロスオーバー(SCO)現象に着目し、SCOに与える分子間相互作用の役割を明らかにすることを検討してきた。結晶構造の二分子を取り出し、その分子間相互作用エネルギー計算をおこない、SCO前後の相互作用エネルギー差を求めると、原子間接触のある特徴ある分子間相互作用よりむしろ原子間接触のない分子間の相互作用エネルギー変化がSCOのエネルギー変化に重要な役割を果たしていることを明らかにしてきた。これまではSCO前後の二つの温度でのエネルギー差に着目してきたが、今年度は結晶構造と相互作用エネルギーの温度変化からSCOのメカニズムを明らかにすることを検討した。昨年度報告したイオン性鉄(III)SCO錯体の多形について、磁性、結晶構造と分子間相互作用エネルギーの温度変化を行なった。このSCO錯体は二段階でSCOを示し、高温側では温度履歴を伴う協同的SCOを示した。結晶構造の温度変化から、低スピン低温相、中間相、高スピン高温相と結晶の対称性が変化する二段階転移であることが明らかとなった。相互作用エネルギーの温度変化を見ると、高温側のSCOにおいて金属錯体カチオンと二種類ある対アニオンの一方との間の相互作用エネルギーが非常に大きく変化することがわかった。高温相の結晶構造では、この対アニオンは熱振動が大きく、結晶中で締める体積も大きかった。つまり、対アニオンの熱運動が高温側の協同的SCOの要因であることが明らかになった。このことは、分子間相互作用エネルギーの温度変化が分子性物質のスイッチング現象の要因を明らかにする有用な手段であることを示す結果である。
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