本研究の目的は、証言的不正義の加害者の責任の範囲とその取り方とはいかなるものなのかを明らかにすることである。 本研究成果の一点目は、証言的不正義が、古典的レイシズムに代表される悪質な偏見をもつ個人によって引き起こされる種類だけではなく、家父長制的イデオロギーなど、その時代の社会規範や制度に組み込まれる構造的な偏見によっても引き起こされうることを明確にしたことである。具体的には、構造的な偏見のせいで加害者が無自覚のうちに不正義を犯している状況を、認識的不運という概念を分析することで明確にした。まず、運・不運に関する先行研究を踏まえて認識的不運の概念を分析し、次に、(1)結果的な認識的不運(証拠主義ベース)、(2)状況的な認識的不運、(3)構成的な認識的不運、(4)状況的・構成的な認識的不運として分類したうえで、以上の認識的不運が反省的形態のものであり、ゲティア事例で論じられる認識的不運とは異なることを指摘した。 本研究成果の二点目は、加害者が認識的不運を被っているとしても、証言的不正義に対する責任を何らかの仕方で負っていると言える可能性を検討したことである。まず、先行研究における証言的不正義の加害者の道徳的責任にかんして、行為の原因になる行為者の性格や悪徳の帰属責任(attributability)と、行為者が何らかの制裁を受けるという意味での事後対応責任(accountability)の特徴を明らかにした。次に、加害者が目前の対話者とのやり取りのなかで、これまで偏った仕方で知覚していた相手に対して「自分はいかにあるべきなのか」と逡巡しながら熟慮しようとする不協和の徳のあり方を明確にし、これを証言的不正義に対する徳論的な責任として提示した。この徳論的な責任を既存の道徳的・認識的責任といかに関係するのかを明らかにすることは次の研究で明らかにされる課題である。
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