本研究の目的は、文献学的手法により、インド密教において最重要の儀礼であるアビシェーカの初期の形態と機能について解明することである。その手立てとして、インド密教における初期のアビシェーカ儀礼を伝える『宝楼閣経』「マンダラ儀則」を中心に取り上げて、サンスクリット語、チベット語訳、漢訳の諸資料を用いた対照研究に基づく校訂テキスト、ならびに訳註研究を報告した。 この基礎研究をふまえ、関連文献との比較を通じて、初期インド密教におけるアビシェーカ儀礼の儀則(儀礼実践のための手引き書)の内容を精査したところ、以下の内容が明らかになった。①アビシェーカ儀礼が、儀礼対象者の浄化や攘災を主な目的として行われる点。②アビシェーカ儀礼の実践を通じて、儀礼対象者が諸仏諸菩薩による支持を得て、宗教的高次の境地を獲得することを保証している点。③入門儀礼としての性格を持つ後代のアビシェーカ儀礼とは異なり、特定の行者集団の規範遵守や指導的地位にある師への帰依を促す規定を確認できない点。 以上より、インド密教の初期段階では、アビシェーカ儀礼が現世利益や大乗仏教の理想とする境地の獲得を主な目的として実践されていたと考えられ、そこには後代のアビシェーカ儀礼に見られるような秘儀的要素を確認できないことが明らかとなった。 今後の研究課題は、入門儀礼としてのアビシェーカ儀礼がいつ頃確立し、そのような性格を持つアビシェーカ儀礼へと展開していった背景を探ることにある。これは、インド密教において特定の行者集団がいつ頃形成されたのかを考察する作業であり、同時にインド密教史を新たな視点で描き直すことにも通じる作業である。
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