本年度は昨年度に引き続き、最初のシリア教父と呼ばれるアフラハト(260~275年生/345年以後没)の著作『論証』における「民(ama)」という語の分析を中心に取り組んだ。この語は、ヘブライ語聖書の引用においてヘブライ語で「民」を意味する'amや「異邦人、異教徒」などを意味するgoyの訳語として用いられ、聖書引用ではない地の文においては、単数形でユダヤ人/イスラエルの民、複数形で様々な民族を意味するとされている。まずは『論証』の中のアフラハトの聖書引用におけるamaの使用例をすべて抽出し、古代末期の(ラビ・)ユダヤ教の文献におけるgoyの用法との比較を行った。その結果、どちらの文献においても、聖書で使われているgoyを、自分たちの陣営にとって都合の良いように読み替えている事例が散見された。このように、自分たちのアイデンティティーを示すために聖書解釈が利用されうるということが明らかになった。具体的には、ヘブライ語聖書においては「イスラエルの民」を意味する箇所が、ラビ・ユダヤ教の文献ではそのまま「ユダヤ人」を意味するとみなされる一方で、『論証』では文脈に応じてそれがそのまま「ユダヤ人」を意味したり「キリスト教徒」を意味するようになったりと、聖書の文脈に自分たちをうまく組み込もうという意図が見られた。 この成果を8月にイスラエル国ヘブライ大学にて開催された世界ユダヤ学会議にて発表したところ、興味を持った聴衆からの質問が相次ぎ、ユダヤ学におけるシリア・キリスト教からの視点がいまだに不十分で今後の研究の進展が期待されているとの確信を得た。
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