研究課題/領域番号 |
19K13059
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研究機関 | 和洋女子大学 |
研究代表者 |
木村 尚志 (木村尚志) 和洋女子大学, 人文学部, 准教授 (80736182)
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研究期間 (年度) |
2019-04-01 – 2023-03-31
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キーワード | 小野・大原 / 数奇 / 所領 / 水郷 / 水無瀬 / 浜名の橋 / 室の八島 |
研究実績の概要 |
今年度の実績として、「西行と小野・大原 : 数奇をめぐって」(単独、査読付き)を『西行学』第11号(2020年10月、pp96-113)に掲載した。交付申請書の「研究目的」の「自然の風景が霊的な力を持ち信仰に結びついている例」として来年度以降、伊勢、熊野の研究に着手する。その前段階として小野・大原が文学、宗教の結びつく場であり、西行という歌人の「数奇」の側面が彼を小野・大原へ誘ったとの結論を得、来年度からの研究の展開に見通しが得られた。 著書『中世和歌の展開―京と鎌倉の文化交流史―』(花鳥社、2021年8月刊行予定)の執筆に当たり、過去の歌枕関係の論文を整理しつつ、追加調査を行った。本書には上記論文の小野・大原の他に、水無瀬、室の八島、浜名の橋という歌枕を主題とした章を掲載する。特に水無瀬については、実地踏査によって、「見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋と何思ひけん」という後鳥羽院の歌は、百山の岡の高台にある若山神社辺りからの眺望であり、それは今日の南西の方角から北東方面の水無瀬川、男山、三川合流地帯、そして京の都を「見渡す」風景であったという説を得るに至った。また美川圭氏の『白河法皇―中世をひらいた帝王』(NHKブックス、2003年)によって、歌枕と院政期の王家及び摂関家の所領の関係が切り離せず、その中で王家の所領としての鳥羽殿、水無瀬殿、摂関家の所領としての宇治がクローズアップされるようになったという見通しを得た。こちらについても、伊勢、熊野研究に併行させて研究を進めたい。その特徴は、陸の道を中心とした律令制の都市計画において意図的に人々の生活圏から遠ざけられていた水郷の風景にあるように思われる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
全体の研究計画の骨格をなす、「和歌の享受層が貴族のみに限定されない時代である上代と中世の和歌と歌枕文化の共存と相互交渉の様相を明らかにする」という目的は、特に著書『中世和歌の展開―京と鎌倉の文化交流史―』(花鳥社、2021年8月刊行予定)の全体の構想を補助線として果たされた。著書では、天台本覚思想が和歌に革命的な変化をもたらす段階を、俊成の晩年の『古来風体抄』に見出した。仏教界では11世紀頃に高僧から聖へ尊き存在の転換が起き、人間平等思想が広まった。それが貴族社会にも浸透してゆくのは、政治と文学において真に救済の思想としての人間平等観が必要とされた、保元の乱以降の戦乱期であった。その人間平等観の政治、文学世界への浸透は、平安時代には絶対的な清浄の地であった都の価値が、従来けがれた土地とされていた東国等都以外の土地の重要性と所領等を通した実際的な関係の密接化、そして京と鎌倉の文化交流によって進展した。 このような全体の見通しが立ったため、今後は具体例を増やして様々な土地の歌枕を取り上げて、現在の新型コロナの状況が改善した暁には、その地の人々との情報交換や講演等を行い、「土地というのは普遍的なテーマであるから、文学の立場から積極的に他の学問領域に参画することができるよう、また延いては将来的に国の教育文化政策や地域の観光戦略にも生かされるよう、研究の質を一般社会へ還元し、その発展に資するものにまで高める」という「研究目的、研究方法など」に記した目的を達成したい。
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今後の研究の推進方策 |
水辺の歌枕として京都の南西部、大阪の北東部の王家や摂関家の所領のあった場所の研究を継続するとともに、新たな研究領域として伊勢と熊野の研究に最も注力する。 まず伊勢神宮について、西行が晩年になぜ伊勢に移住したのかを明らかにした研究はまだ存しない。しかし、西行の移住の頃からそれまで忘れられた神であった天照大神の存在が俄かにクローズアップされた。「深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風」(千載集・神祇)に表された、天照大神を大日如来と見る本地垂迹思想は、中世神道の先駆けとして大きな意義を持っている。真言密教の最高の仏である大日如来と、これまでの西行の生活圏になかった伊勢の海の「水辺」の風景はどう結びついたのであろうか。また崇徳院や鳥羽院に深く心を寄せた西行は、皇祖神としての伊勢神宮と、本地垂迹思想に基づく大日如来の在所としての伊勢神宮のどちらに比重を置いていたのだろうか。それともその両者は本質的には差がないのであろうか。 熊野も従来は民俗的な信仰に根をはりながら、次第に王権との結びつきを強めた。白河院以降の上皇は何十回も熊野詣を行った。西行に対して末法の世に和歌を詠む意義を教え諭したのは熊野別当であり、熊野と王権と和歌は中世という時代において強く結びついている。そして、朝幕の仲介役であった摂関家が衰退した足利将軍時代、従来の摂関家の役割を担ったのは熊野別当であった。つまり、中世の王権は旧来の民俗的な信仰をも王権のレガシーとして取り込みながら、人間平等思想を徹底させていったのではないか。 その中で伊勢や熊野は民俗と王権の矛盾を止揚した、より高次の信仰の形を和歌等の文学の力を借りて作り上げていったのであろう。こうした見通しの下、今後の研究は推進してゆく。
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次年度使用額が生じた理由 |
新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、当初の出張計画や、研究調査の方法などが著しく大きな制約を受けたため。
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