本年度は、前年度に引き続き資料の読解および分析を進めた。当初の研究計画における仮説の通り、「本名」を名乗ることに関する抵抗や違和感は多々みられた。その中でも特筆すべきなのは、当事者による文章における違和感や抵抗感は、すでに乗り越えられた壁として語られていることであった。一方、夜間中学教員による報告などでは、例えば「日本人が通名を強制したのにまた日本人の都合で本名を名乗らせようとするのか」などといった当事者からの痛烈な批判があがっていたことが看取された。ここから読み取れるのは、当事者には、「本名」使用に対する先達として啓蒙的な役割が期待されていたことである。また、教員からは「本名」運動の中断や「教師・生徒ともに本名を名乗る意味をよく理解していなかった」という旨の反省もしばしば報告されている。ここからは、計画や方法論の開発・深化に先んじて運動自体が加速度的に広まっていったことが窺われ、今後運動の詳細な波及過程も調査する必要がある。 「本名」を名乗っている当事者・日本人教員側に共通して見られたのは、「本名」を名乗ることが「個としてよりよく生きること」と密接に関連づけられていたことである。これは定住志向が一般化しているという点で、指紋押捺拒否運動など以降に展開される権利運動との連続性を持つものである。「本名」を名乗ることは時に「生死に関わりかねないこと」とまで注意されながらもそれでもなお「本名」が要請されるのは、「個や日常をよく生きるため」であるという論理が多々みられた。こうした美しくも抽象的な理念は、啓蒙され教育される側との乖離を生んだと現時点では考えている。
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