最終年度は、F・スコット・フィッツジェラルドとヘンリー・ジェイムズの作品における資本主義経済の表象を、主に身体性や記憶に焦点を当てながら研究した。『グレート・ギャツビー』(1925)や『アメリカ印象記』(1907)といった作品において、階級間格差の増大や、急速な都市化に伴う過去の風景の変容は、一方では、人物の身体感覚やセクシュアリティーのあり方を、他方では記憶のあり方や時間感覚を直接的に規定するものとして描かれていることが明らかになった。研究期間全体をとおして見えてきたのは次のことである。つまり二十世紀前半のアメリカ作家は、階級格差や信用経済の進展といった、資本主義を軸とする社会的経済的問題を、人間の外面的な社会生活の様式をこえて、記憶や時間感覚、倫理といった「内面」のあり方を深く規定するものとして描いた。一九世紀の小説に比べて、主観的な「内面」の表象へと傾倒したとされるモダニズム小説だが、通説的な解釈では、そこでの内面とは、急速に伝統を破壊して変化する社会や経済といった「外面」から切り離された、「内部」を作家が模索したものとしてとらえられてきたとするならば、本研究で明らかになったのは、ジェイムズやフィッツジェラルドの作品において、内面とは、むしろそういった外面との密な関係において形成され、その外面に深く媒介・規定されたものとして提示されている、ということである。さらに本研究が解明したのはこれらの作家の諸作品において、身体性やセクシュアリティのあり方は、外面と内面、外部と内部の「境界面」として描かれているということ、すなわち、内面と外面が相互に作用し、影響し、互いに定義しあう極めてダイナミックで複雑な運動が生じる場として描かれている、ということである。
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