最終年度は、2022年に出版した単著へのフィードバックを得ることに加えて、コロナ禍を経た現地の最新状況をアップデートすることに注力した。 コロナ禍は、深南部の社会と政治の過渡期と重なっていた。調査開始時と異なり、深南部の文化や歴史について語ること、パタニ・マレーの権利に関する政治的な主張を行うことは、もはやタブーではなくなっている。行動制限が撤廃され、コロナ以前の状況が戻りつつあるなかで、タイ深南部では2023年の総選挙に向けて政治的に覚醒した若い世代が議会政治の場での闘争を模索していた。マレー文化の尊重や治安部隊の撤退を掲げた彼らと、イスラーム的価値を重視し政治から距離を置こうとする若者たちの間の温度差は単著執筆時と同様にあったとはいえ、20年続く紛争状況の改善を希求するという点では意見の相違はなかった。本調査で得られた成果の一部は、共著としてまとめた。 本研究は、タイ深南部に焦点を当てつつ、隣国マレーシアや東南アジアの域内大国であるインドネシアから大きな影響を受けてきたイスラーム主義運動とナショナリズム運動の動向を文献調査と現地調査から検討してきた。ムスリム多数派国において、政治的な力によって規定される「逸脱した」イスラームをめぐる論点がムスリム社会内部での亀裂を生み出してきたのに対し、組織の分裂はみられるとはいえタイ深南部のマレー・ナショナリズム運動は民族自決を掲げ独立を目指す点では一致していた。ムスリム社会内部の改革を主眼とするイスラーム主義運動は、政治とりわけマレー・ナショナリズム運動から戦略的に距離を取ってきた。本研究では、深南部のムスリム社会内部において対立傾向がある2つの流れが、グローバルなジハード主義には一致して否定的であったことを指摘した。
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