本研究は、1940-50年代の日本映画において「子供」がいかに表象され、どのように受容されたのかを歴史的に調査することによって、戦時期のナショナリズムや戦後民主主義の思想体系に「子供」がどのように組み込まれていったのかを明らかにすることが目的である。ジェンダー化される前の「無垢」な子供の身体が、総力戦体制や戦後民主主義の伝達のためのイデオロギーにいかに利用され包摂されていったのかを分析するための資料の収集をおこなった。 該当時期における一次資料のアーカイブを進め、概ね必要な作品はそろえることができた。また「子供」について書かれた文献や雑誌の記事の調査もおこなった。とりわけ戦中に「子供」を生き生きと捉えた清水宏映画とそれに関わる雑誌の批評言説を収集して分析した。その研究成果として日本映画学会において「メディアにおける戦後民主主義のイメージ:〈子供〉はいかに語られたのか」というタイトルで発表し、論文を執筆している。 戦中・戦後に「子供」を主題にした児童映画を多く撮った清水宏は、日常的なリアリズムで描写しながらも、単純なコンティニュイティ編集ではなく「省略法」による子供の移動を「想像的アクションつなぎ」で見せたり、水と一緒に描く時に露出オーバーに光を取り込んだりと、映像技法を駆使して子供を純真で躍動的な存在として主体化した。戦中期においては過度な精神主義のもと国策映画で大人の男女が禁欲的に描かれる一方、清水映画の子供は純粋さし、自由や希望を体現し、特権的な役割を担っていた。今後は戦時中の子供の位置付けをより幅広いコンテクストから分析し、清水映画の子供を比較検討する必要がある。
|