本課題の研究目的はフランス科学認識論の倫理学的射程を明らかにすることである。2018年度は、カンギレムの医学哲学の倫理学的意義の研究を、従来の倫理理論との違いという観点から進めた。2019年度は、シモンドンの個体化論の倫理的射程に関する研究を、ネオテニー化(個体化の減速)という概念に注目して進め、この生物学的概念が、環境に対する適応力の拡大という意味において、倫理学的に積極的に解釈できる可能性を示した。2020年度は、カンギレム哲学における個体主義と、科学者の「責任」の問題との連関を検討し、以下の点が明らかになった。 1/カンギレムの医学哲学における個体主義は、当時の優生学に対する批判的な視点に基づくクルト・ゴルトシュタインの全体主義と共鳴する考え方である。 2/カンギレム哲学において、個体は次のような様相を呈する。a)生理学的事実とは区別される病人の実感、b)不確かな環境に対し価値的選択を行う生物個体、c)存在ではなく意味、価値、d)関係の中の項、e)多価性をもつ有機体。 3/カンギレムにとって医師の責任とは、生体の特異性を引き受けること、すなわち、意味であり、価値であり、多価性をもつ個体に向き合うことであり、医学的良心とは、治療とは実験であるという自覚である。倫理的問題の所在は、実験をしているという自覚を麻痺させるもの、すなわち、個体を見えなくさせているものにある。具体的には、知識偏重型の医学部のプログラム、集団的要請に合わせた健康の自己管理、統一的尺度としてのQOL、医学的合理性と論理的合理性の混合が問題視される。 一連の研究から、人間主義や人格主義とは異なる、生命個体を基底とする倫理学の可能性を具体化したという点において、科学思想史の領域に留まらない、フランス科学認識論の倫理学的意義が明らかになった。この研究の成果を、2020年9月に日仏哲学会秋季大会にて発表した。
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