本年度は、まず、頼朝将軍記の建久3年(1192)~建久6年(1195)と、正治元年(1199)~建仁3年(1203)の頼家将軍記について、吉川本(吉川所蔵館所蔵)を底本として、北条本(国立公文書館所蔵)・島津本(東京大学史料編纂所所蔵)・毛利本(明治大学図書館所蔵)・伏見宮本『吾妻鏡』(宮内庁書陵部所蔵)・清元定本『吾妻鏡』(東京大学史料編纂所所蔵)・『文治以来記録』(尊経閣文書所蔵)の諸本で対校し、仮名本である南部本『東鏡』(八戸市立図書館所蔵)を参考にして字句の補訂を施した校訂本文を作成した。 つづいて、頼家将軍記の梶原景時追放事件・比企能員滅亡事件の原史料分析を行った。梶原景時の事件は、その発端である阿波局が結城朝光に景時の讒言を告げる記事から、そのほとんどの記事に天候や時刻の記載があり、天候記載のない記事も文書を原史料とした記事だとみられる。また、不読助字を用いた文飾も少ないので、一連の『吾妻鏡』の記事は史料としての信憑性があると判断できる。一方、比企能員滅亡事件は、時刻を伴う戦乱の経緯には信憑性があるものの、その前後の北条政子による密告記事やだまし討ち記事などには文飾表現も多くあり、史料としての信憑性に欠ける。頼家から実朝への代替わりが『吾妻鏡』記事よりも早い段階で京都に伝えられていたことが『猪隈関白記』から明かである。『愚管抄』にも関連記事があるが、伝聞による不確かな情報も混じっており、これに依拠するのも危ういことを明らかにした。
|