プロイセン王国おいて18~19世紀は国民経済の形成期であり、王国内を拠点とする人々が宗教の違いを問わず一つの国民へと統合されていった時代であった。確かにユダヤ人個人に注目すれば、彼らもそれぞれが生活する地域の国民へと統合されていった。ただ17~18世紀に宮廷ユダヤ人として活躍するようになった一族全体に焦点を当てると、一族の居住地がドイツを中心にヨーロッパ各地へ散らばっていた。その原因は彼らの婚姻戦略にあった。彼らは子供たちが結婚する際にそれなりの額の持参金を持たせていた。互いの家が出す持参金の額について、それぞれの家が納得できなければ結婚が成立しなかった。そのため宮廷ユダヤ人の一族同士の結婚が少なくなく、各地で活躍する宮廷ユダヤ人同士が子供たちの結婚を通して国境をまたいで親戚関係になったのであった。けれどもこれは親戚関係になったというだけであって、ビジネスにおける協力関係の形成といったようなものではなかった。血縁関係がある場合でも宮廷ユダヤ人同士は社会的にも経済的にも対立し合うことはよく見られた。こうして一族の繋がりが決して強くなかったことは最終年度に行われた研究からも明らかになった。宮廷ユダヤ人やそうした人々と親戚関係にあったユダヤ人の商人は、ユダヤ社会での名声を重視していた。彼らは商業活動の傍ら、地域のユダヤ社会の代表としても活躍していた。宮廷ユダヤ人は一族が国境を越えて経済的に活躍している場合でも、一族のメンバー個人は、それぞれが特定の地域のユダヤ社会に貢献していたのであった。国際的に商業活動で飛び回っているような宮廷ユダヤ人が、実は特定の地域社会の発展に貢献していて、そうした地域のユダヤ社会の組織化に向けて重要な役割を果たしていた。このことを明らかにしたことが本研究の重要な成果と言える。
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