2018度までの研究により、1970年度に総合学習が提起された背景には、教育課程を「教科と教科外」と捉えるのではなく、「教科と総合学習」という形で捉える発想が隠されていたことが明らかとなった。この発想をとることで、1970年代においてすでに、子どもたちが課題を設定して探究的に学んでいく必要性を示唆することができたのである。この考え方は戦後新教育期に端を発し、教育課程のあり方をも問い直す可能性をはらむものであった。 この1970年代に提起された総合学習において、手を使った学習を通じて、子どもたちを労働や文化の世界とつなげていくことも意識されていたことは重要である。この総合学習論を支えた背景のうち、本研究では戸塚廉から鈴木孝雄へと連なる系譜に着目した。戦前の生活教育論争の立役者となった戸塚の影響を受けながら、戦後に鈴木が「文化活動」の重要性に着目し展開した実践が、総合学習の一つとしても捉えられていた事実に注目することは、総合学習とはなにか、総合学習を内包することによる教育課程のあり方を捉え直すことにつながる。 そこで本年度は、特に戸塚廉の戦前戦後にわたる資料を収集し、分析を進めた。具体的には、戦前の史料を東京大学教育学部附属図書館所蔵の戸塚文庫に、戦後の史料を一橋大学所蔵の戦後戸塚文庫に訪ねた。特に後者については、戦後の教育史を子ども文化という視点から追う上でも貴重な史料が蓄積されているが、申請者が調査に訪れるまで目録等の整備も不完であった。そこで申請者は、目録化を進めるととともに貴重資料のデータ化を行った。資料の逸失を防止するという意味ではこれ自体一つの成果であろう。それのみならず、ここに蓄積されていた子どもたちの作った学級新聞により、戦後の教育課程が変化していく中での、教師の教えと子どもたちの学びの捉えの移り変わりを分析することが可能となった。
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