本研究は、鎌倉時代の文殊菩薩の造像作例を対象とし、尊像形式や図像表現の伝播の様相を明らかにすることを目的とした。とくに鎌倉時代後期においては西大寺系の集団の存在は大きく、西大寺系の文殊信仰にもとづく造像作例に着目しつつ、研究を進めた。最終年度である本年度は、これまでの研究のまとめとして、鎌倉時代以降に南都(現在の奈良)で流行した文殊五尊像の展開の様相と、そこにおける西大寺系の造像活動の意義について研究した。 文殊菩薩を中尊として脇侍が付き従う群像形式は、中国に端を発し、その後、日本でも受容されていった。日本の彫刻作例のほとんどは五尊形式で、現存作例が南都に集中している。日本の神と仏教の仏とを同一にみなす神仏習合と文殊五尊像が結び付いた作例を検討し、中国から受容した仏教の尊像形式が日本的な展開を遂げたことを指摘し得た。また、鎌倉時代後期には西大寺系の文殊五尊像の造像作例が認められることを確認し、日本における文殊五尊像の展開に西大寺系の文殊信仰や造像活動が果たした役割の大きさを明らかにすることが出来た。 中国で形成された文殊菩薩の群像形式は、日本では主に五尊形式という選択的な受容がなされ、神仏習合と仏教の尊像形式とが結び付いた日本的な展開や、西大寺系の造像活動による継承が行なわれていた。本研究では、文殊五尊像の尊像形式や図像表現の形成と展開についての研究を通じて、仏教彫刻の「かたち」の伝播と継承の具体的な様相を明らかにした。
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