2022年度は、1736年にあった五日次支給規定の変化をめぐる交渉を事例に、近世日朝外交における裁判役の位置付けや重要性について検討した。上の交渉に入る前、倭館の雨森芳洲と対馬藩当局の間では交渉担当者をめぐって議論があった。この時の論点は「誰」を交渉に当たらせるかではなく、「どの役職」を交渉に当たらせるかであった。つまり、「裁判役という役職」でないと交渉は失敗する、というのが芳洲の意見であった。結局、内野一郎左衛門なる藩士が裁判役として派遣され、裁判役という役職によって交渉を有利に進めることに成功した。裁判役は「人」ではなく「役職そのもの」で勤める役職だったのである。 上の研究を踏まえ、全体としては近世日朝外交における裁判役の役割について考察した。つまり、対馬藩の裁判役は17世紀中頃より特権商人(六十人)から士分が任命される役職になった。しかも、被任命者が長期間にかけて経験を積みながら勤める役職から、短期間で次から次へと交代される役職になった。しかしながら、だからといって裁判役が内実の伴わないような役職になったわけではない。裁判役は17世紀末から藩を挙げて始まった記録類の整備や蓄積に支えられ、また役職そのものがもたらせる効果によって、18世紀になると被任命者の経験や外交能力に頼らずに役割を果たせる役職になっていた。要するに、個人の技量に頼る役職から制度として動く役職になったのである。だから18世紀末より被任命者の代わりに名代が派遣されるようになっても無理なく裁判役という重役を果たせることができ、19世紀になってからは名代の派遣が頻繁に行われたのである。また、裁判役は音物や饗応を利用して朝鮮役人との非公式な意思疎通ルートを作り出していた。こうした役職としての機能や個人としての努力によって、近世日朝関係が「善隣友好」のまま維持され得たのである。
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