本研究の目的はベルギーの政治学者シャンタル・ムフの政治思想を全体的に把握し、その教育学における射程を検討することである。 研究の具体的内容は以下の通りである。 第一に、前期ムフ政治思想、すなわちポスト・マルクス主義(マルクス主義の再構築)における主要概念や問題意識に焦点を当てた。ポスト・マルクス主義はマルクス主義における階級還元主義および本質主義を批判し、「言説(discurse)」や「節合(articulation)」といった概念を駆使して、これを克服する。ここから導かれるのは、あらゆる社会現象を隈なく説明する根本的原理は成立し得ず、そうした体系ですら言語的に構築されたものに過ぎないという立場である。こうした立場はかつて教育学におけるマルクス主義受容を再考する上で有効な視点と成りえることを明らかにした。 第二に、ムフのヘゲモニー論に焦点を当てた。彼女のヘゲモニー論はローザ・ルクセンブルク、カウツキー、レーニン、グラムシというマルクス主義の系譜を継承するものであり、とりわけグラムシに強く影響を受けている。グラムシはヘゲモニーを大衆の同意によって構築されるものとして捉えたが、ムフはこれを感情の動員を通じた「われわれ」の構築として読み替えている。これは近年のポピュリズム論をみても明らかである。以上のことから、ムフのヘゲモニー論は(1)教育言説の構造を紐解くとともに、新たな言説の創出に貢献すること、(2)教育におけるイデオロギー批判の方法論を示唆すること、が明らかになった。 総括すると、ムフ政治思想(とりわけ前期)は言説の作用が主題となっており、これは教育学の体系や教育にはたらく政治を読み解くうえで有効な視点となりうることが明らかになった。これが本研究の意義である。
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