2021年度の研究では、1950年前後に仏領西アフリカの教育局長を務めたジャン・カペルの教育理念を手掛かりに、同時期の仏領西アフリカの教育改革を読み解くことを試みた。 ジャン・カペルには、教育者、技術者、研究者、管理者、教育行政官という5つの経歴があるが、彼の経歴や自著などからは、カペルが近代学校教育を重視し、高度技術人材の育成に熱意を注いだことが読み取れる。また、西アフリカの教育に関しては、フランス連合の一員としてふさわしい、本国同様の教育を国民教育省の管轄下で行うべきであるという主張を一貫して展開した。 仏領西アフリカでは、フランス本国の教育から分断された独自の教育行政システムが構築されていたが、1944年のブラザヴィル会議以降、フランス本国と同等のカリキュラムや修了試験の実施が目指されるようになった。これと並行し、旧来、フランス海外領土省(旧植民地省)の主導で実施されてきた農業教育にも批判が生じた。その結果、同省の教育部門が縮小され、国民教育省の仏領西アフリカでの影響力が強まっていった。 こうした状況下にある1947年、仏領西アフリカ教育局長としてセネガルへ赴任したカペルが現地で行った教育改革は、(1)教育行政改革、(2)大学区の創設、(3)高等教育機関の設立の3点に集約される。これらの教育改革を通してみると、第二次世界大戦後の仏領西アフリカの教育改革をめぐる対立構造は混乱を極めており、その実施に際しては複数の要素が介在していたことがわかる。植民地であるアフリカ側の意見を閑却できない時代的状況の下、1900年代前半とは異なり、宗主国/植民地、フランス人/アフリカ人という二項対立では理解不能な重層的構造のなかで教育改革が実施されたのである。
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