本研究の目的は、量子論的な揺動散逸定理に基づく光散乱スペクトルの基礎表式の適用限界を実験的に明確にするとともに、適用できなくなる起源を明らかにすることである。散逸過程との関係を探るために、スペクトル拡がりの大きいモードをもつ系を対象としてストークス散乱と反ストークス散乱の強度比を精密に測定し、光散乱の基礎表式から期待されるボルツマン因子との精密な比較を行う。その結果から、光散乱スペクトルにおいて物質中のゆらぎが量子性を失い、古典的なゆらぎとして観測される起源を明らかにする。 今年度は、比較的広いスペクトル拡がりをもつ酸化チタン結晶におけるフォノンラマン散乱(Egモード)について、その温度依存性に関する詳細な測定を行い、ストークス・反ストークス散乱強度比を解析した。その結果、約150Kから250K程度までの温度において、モードの中心振動数から半値幅程度の周波数領域で、強度比が各振動数におけるボルツマン因子からずれ、モードの中心振動数におけるボルツマン因子の値に近づくことが明らかとなった。そのずれの大きさは最大で約5パーセントであった。フォノンモードのスペクトル拡がりの起源によらず、光散乱が系の定常状態間の遷移に対応し、時間反転対称性と系のカノニカル分布が成り立つならば、強度比とボルツマン因子との関係は常に満足されるはずである。今回観測されたボルツマン因子からのずれは、通常は現象論的に(単に近似として)取り入れられる不可逆的な緩和過程を考慮することが、光散乱のスペクトル拡がりを考える上で本質的に重要であることを示している。
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