本研究の最終年度として江戸時代関東農村で剣術流派が普及した原初形態を調査することが農民の剣術伝承の理由を解明できると考え、1)伊勢・志摩地域における影流、2)大津堅田地域における冨田流、3)彦根藩における念流(友松氏宗)4)毛利家における剣術流派の文書調査を行った。一方5)大平真鏡流の江戸道場をあらわしたと考えられる文書購入により、幕末期上総国農村で普及した不二心流・中村一心斎の動向が判明した。また6)弘前藩武芸流派調査を行った。 1)三重県南伊勢町五カ所浦「愛洲の館資料館」は、秋田県立文書館蔵:平沢家文書の複製5点、および水軍関係資料4点を有し、中世・田曽浦の警護役であった北浦家文書(天正4年7月3日鶴松書状)に水軍と影流との関わりの可能性を求めた。2)大津堅田で冨田流文書を持つ居初(いそめ)家においても伊藤一刀斎と堅田水軍の関係を示す文書については今回見つからなかった。3)彦根藩調査では、「友松氏宗供養歌写」「兵法書写」に馬庭念流中興の祖友松氏宗が上野国に剣術普及に来る前後に彦根藩に存在したことを確認した。また江戸の豊後岡藩中川邸で北辰一刀流、直心影流、鏡心明智流が(年不明5月13日)行った記録に、安房国農村で北辰一刀流の山田官司が他流試合に参加しているこれは江戸市中の有力流派同士の試合が行われていたことと、関東農民が江戸へ出ることを剣術が可能にしていることを示す。4)毛利博物館(山口県防府市)蔵:水軍であった白井入道利才→海田四郎宛の文明8年(1486)および1500年「剣十五ヶ条誠(いましめ)」(毛利興元宛)など文書を撮影。山口県立図書館では、江戸で武芸流派の上覧が行われた場所である植溜絵図(二通)を撮影。6)弘前藩では、一刀流関係文書・当田流関係文書・弘前藩藩校における武術入門の起請文など45点の撮影を行った。このうち文久2年「御自筆の写」(家中の面々流儀にかかわらず面試合稽古致し候様申しつけ)により、幕末の弘前藩において形稽古からしない打ち込み試合稽古に移行した理由が、北海道など北方に着船していた外圧であることがわかった。
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