戦後アメリカの教育使節団によって我が国の体育科は保健教科も扱うようになり、保健体育という名称で現在まで教科として位置付いてきた。しかし時代の流れの中で体育と保健はその目的は曲解され歩み寄り、健康体力づくりのための体育という色合いが濃くなってきた。しかし健康体力づくりを目的としているならば、多くの運動課題の習得を義務づける意味が崩壊してしまう。そこで、体育実技における技能習得の教育的意義を改めて見直し、教科としての体育の意義を発生運動学的立場から研究した。そこでは「身体知」の形成が主眼に置かれ、人間的なる営みとしての自らの動感身体との対話に運動文化伝承の始原を見いだすことになる。さらにその営みにおけるパトス的葛藤は人間形成にも資するから、国民の義務として体育を学ぶ必要が生まれてくる。当然、その教育にかかわる体育教師は専門家としての技能を有することに異論を挟む余地はない。しかし、体育教師が持ち合わせるべき能力はあまり解明されず、いまだ「できれば教えられる」という理解が根強い。だから「何でもそこそここなせる教師」と「専門的な技能に特化した教師」とどちらが良いかという不毛の議論が後をたたない。結局、音楽教師が音を聞き分けると同様に体育教師の運動問題を見抜く専門的な観察力を主題化しなかったところに問題がある。そこでの運動観察力とは身体発生を主題化しているから動感観察力を求めていることに多言を要さない。この動感観察力をどう養成するかということが今後の課題となる。動感観察力をどう養成するかという具体的な方法論を構築することが焦眉の急であり、次年度以降もこの研究を続けていくことにする。詳細は今年度発表拙論を参照されたい。
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