本研究は体育の授業場面における問題点から、体育の教育学的意味を再考し体育教師が必要とする能力を再確認するものである。体育は運動技能を習得させることに特徴があるが、「なぜ運動技能を習得させるのか」という疑問は簡単に解決しない。例えば、「健康体力づくりのために体育が必要である」とするならば、学校以外にジムやスポーツクラブでも体育は学べる。「生涯スポーツを楽しむ基礎として体育を学ぶ」とし、その基礎体力養成であれば運動技能習得は必要なくなる。「基礎体力ではなく基礎技能として運動技能を習得する」のであれば、生涯体育という広大なスポーツ種目領域を横断する基礎技能の体系化が必要となる。体育の教育学的意義はこのように怪しいのだが、その解決に向けての努力は見えない。 そこで本研究は運動技能の習得を「人間の営みとしての運動発生」という視点から再考したが、それによって身体知の形成という根源的な人間の営みが体育の中心に据える必要性が明らかとなった。単に運動課題を習得したという結果ではなく、それに向かっての身体知の形成過程は人間にとって膨大な教育領域となる。それを中心に据えると、「人間が生きていくために必要な身体知の発生の基礎を学ぶ」のが体育の教育学的意味として捉えられることになる。それを体育教育の中心とするならば、課題習得の結果だけに関心を持っていた体育授業展開は、「どのようにしてできるようになったか」という生徒の主体の営みに関心が向くことになる。このことにより体育教師は「できるようにさせる」ことがその任となり、身体知の形成に戸惑っている生徒に積極的に関わらざるを得なくなる。そこでは授業管理や健康に関する知識量よりも動感の問題を見抜く力が要求される。 つまり、体育教師が身につけなければならない重要な専門的能力は、「運動観察力」となる。音楽教師が音を聞き分けられるように、体育教師はできない生徒の身体知の問題を見抜けなければならない。「できれば教えられる」程度の体育の理解は、学校体育の運動課題を身につけ、あとは授業管理のマネジメントの知識を身につければ専門家を養成したと呑気に構える風潮を生み出してきた。しかし、体育の教育学的意味を身体知の形成に求めれば、体育教師養成課程で「運動観察力」の養成は必至となる。新しい体育の教育学的意義を身体知の形成に求め、促発指導者を養成するならば、体育指導者養成機関では運動観察力の養成法の授業が展開されなければならないが、それが今後の課題である。
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