信の哲学の構築をめざした。パウロの意味論と心身論を「ローマ書」の分析を通じて明らかにした。従来ない分析であっただけに方法論からして新たに構築せざるをえなかったが、テクストによりその正しさがほぼ検証された。三つの実在の層とそれに対応する言語の層を判別すること、さらにそれらの関連をテクストに即して明らかにすることができた。これによりパウロが神学者であるのみならず、聖霊に対する言及なしに哲学的に理性においても共約的に理解できる整合的な言語の層を構築していたことが明らかになってきた。とりわけ「信」の二つの意味(「イエス・キリストの信」において啓示された神の信とひとの心的状態としての信)が判別されることにより、トマス・アクィナスに代表されるカトリシズムの体系とルターに代表されるプロテスタンティズムの信の理解がパウロにおいては既に調停されていたことを明らかにすることができた。このことは1999年にローマカトリック教会とルター派のあいだで調印された「義認の教理に関する共同宣言」が問題の正しい解決ではなくいかに妥協の産物であるのかを明確に示す結果になった。このことの社会的意義は双方の和解に向けての哲学的基礎を提示することにより、新たな宗教改革の可能性の基礎づけがなされたことであると言える。それを「パウロ「ローマ書」の言語哲学-神学論争の解消に向けて」において論じた。歴史に照らしてみても、カトリックが1500年ものあいだテクストを誤解し続けたということは考えにくく、パウロが既に双方の正しさを秩序づけていたということは十分に説得性を持つ事態である。神学論争は、その基礎的な思考が遂行されている哲学的次元において明確な理解が提示されるとき、その制約のもとで解決することができる。パウロは哲学者として思考していたことを神学論争を解消するというその営みのなかで証明できたと理解している。
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