本研究は大慧宗杲の禅を中国思想史のなかに位置づけようとするものである。本年度は、まず第一に、昨年度の資料調査をふまえつつ、『大慧普覚禅師年譜』の補訂訳注、および『大慧普覚禅師普説』四巻本・一巻本の訳注作成を試みた。前者については、立正大学大崎図書館所蔵の五山版を底本として、内閣文庫所蔵(林羅山旧蔵)の室町期のものとも目されている写本を参照しつつ、とりわけ当時の一般士大夫との交渉について注意した。また後者については、本年度は一巻本をとりあげ、ひとまず便宜的に卍続蔵本を底本として、京都大学松本文庫所蔵の鎌倉末期のものとされる五山版と対照しつつ訳注を試みた。なお、国家図書館所蔵の宋刻本(マイクロフィルム)も参考にした。あわせて両著の内容を地方志などによって確認したが、なとえば、すでに『淳煕三山志』(1182年)には大慧が福州で住していた雲門庵についての記述があることなどが知られた。この『年譜』『普説』の補訂訳注はさらに継続する予定である。第二に、大慧が再住した径山万寿禅寺(浙江省余杭市)で彼に関わる遺址を尋ね、終焉の地となつた明月堂(妙喜庵)とその前面の明月池の位置を確認した。ただし、明月堂の背後の山中に建てられていたはずの大慧の墓塔は近年の考古学的調査でも発見されなかった由である。また、境内の含輝亭跡には孝宗の書とされる寺名八字の石碑が現存し、碑陰には楼鑰撰「(重建)径山興聖万寿禅寺記」が刻され、嘉泰三年(1203)の修造と伝えている。これは原碑であるか不明であるが、文中では大慧にも言及している。ただし摩滅のために判読しがたい箇所が多く、また文献資料の当該文と対比すると文字の異同も見うけられるようである。以上、二方面から研究を進めた。
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