本研究は大慧宗杲の禅を中国思想史のなかに位置づけようとするものである。本年度は、基本的には昨年度と同様に、資料収集をしながら、『大慧普覚禅師年譜』の補訂訳注、および『大慧普覚禅師普説』の訳注作成を継続した。その関連でいささかの成果を得た。まず第一に、前者の『年譜』との関わりで、残存する清代以前の地方志から資料を収集したが、大慧の足跡についてはかなり詳細な記録が残されているのを確認した。たとえば大慧が46歳の頃に居住した福州〓県洋嶼の雲門庵には、没後にも妙喜庵などの建築が存し、寧宗の時に雲門寺が建立されたらしい(『〔淳煕〕三山志』・『〔万暦〕福州府志』)。また53歳から流罪になった衡州については、大慧が開福・法輪・鉄岡・西禅の各寺に居住したと伝え、かつ、『年譜』に見える花薬山・伊山が衡陽県の西方に位置することも知られる(『〔嘉靖〕衡州府志』・『〔康煕〕衡州府志』)。ついで67歳まで流罪になった梅州では、西巌寺に居住したことと、その周辺の状況が知られる(『〔嘉靖〕広東通志初稿』・『〔万暦〕広東通志』・『〔康煕〕広東輿図』)。これらの記述は、もし根拠が確実であれば、『年譜』を補うはずである。第二に、大慧の『年譜』や語録に附けられている宋代士大夫の序跋を通して、当時の儒仏二教の交渉が具体的に知られることを確認した。たとえば、おそらく南宋宝祐元年(1253)に重刊された『大慧普覚禅師語録』に附けられていたはずの尤*〔火偏+育〕の序文や劉震孫の書後では、大慧と朱熹との関わりが強調され、楊棟などの書後でも大慧と呂祖謙との関わりが認められている。南宋末に大慧の禅と宋学、すなわち儒仏二教の調和をはかろうとしていた具体的な動向が察せられるのである。なお、楊棟の書後は内閣文庫蔵『大慧-普覚禅師語録』に附けられており、日本にのみ残存する資料であろう。
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