本研究は大慧宗杲の禅を中国思想史のなかに位置づけようとするものである。本年度は、昨年までに収集した大慧関係の資料をふまえつつ、『大慧普覚禅師年譜』(以下『年譜』)の研究を中心に据えた。第一に、『年譜』の現存唯一の宋本である中国国家図書館所蔵の宝祐元年(1253)重刊本について、この重刊本は『大慧普覚禅師語録』三十巻・『宗門武庫』一巻などとあわせて刊刻されたらしいこと、また重刊のさいに附けられたと推測される数篇の序跋等によれば、大慧没後百年近い南宋末期にあっても、儒教側からの仏教批判に対抗して、仏教側(禅宗)では大慧と朱熹・呂祖謙などを性急に結びつけようとしていた形跡が窺われることを指摘した。第二に、この『年譜』の訳注の完成に努め、大慧と当時の士人層との交渉については可能なかぎり詳細な調査を試み、その過程で以下のようなことなどを確認した。大慧との関係が最も注目されるのは周知のように張浚と張九成であるが、思想史のうえでは、『年譜』に見えている士人のうち『宋元学案』にも取りあげられている彼ら二人を含む二十数名が注目される。とりわけ曽開・張九成・呂本中は大慧のもとで証悟したと記され、かつ李光・曽幾・汪応辰・張孝祥も大慧と親密であったと記されている。張九成に関しては従来から論じられているが、他の士人についても各々の心の捉え方を大慧禅との関連で検討することによって、当時の思想状況が具体的に知られるはずである。ひるがえって、張浚の子が張〓、呂本中の従孫にあたるのが呂祖謙、さらには大慧との交渉が知られる劉子羽・劉子〓の兄弟も朱熹の師であったことなどを勘案すれば、朱熹が彼の理の哲学をうちたてるにさいして、大慧禅をぜひとも批判克服せねばならなかった事情の一端も推測されるのである。
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