「情痴も海戦も、一つの素材にすぎないのである。」―これは丹羽文雄が自分自身をモデルにした主人公「紋多」を通して戦争中の創作姿勢を振り返った『告白』(昭和二四年三月、六興出版部)のなかに登場する言葉である。内閣情報局第二部第二課専任情報官の鈴木庫三陸軍少佐から愛欲を描く情痴作家として睨まれていた丹羽は、昭和一六年一一月二一日、国家総動員法にもとづく国民徴用令に従って二〇数名の文化人とともに徴用に応じた。「情痴」は〈非政治的〉で「海戦」は〈政治的〉であるという単純な区分で当時の言論統制を理解することは適切ではなく、丹羽が内閣情報部から〝目の敵〟にされたほどつねにセクシュアリティは国家による弾圧の対象になるのである。文学者の戦争協力を研究する櫻本富雄氏によれば、この徴用はどのような基準で人選がおこなわれたのかが全く不明で、「その謎は資料不足や当事者の沈黙等によっていまだに解明されていない」とされるのだが、「従軍作家にえらばれることは花形作家としての折紙をつけられたことを意味していたし、それにはずれた者には日陰者のイメージがつきまとう時代」でもあった(野口富士男)。丹羽は「ブラックリストにのっている軟弱な作家」であることを十分に弁えていたつもりではあったが、徴用令状(白紙)の配達が遅れたときの複雑な心境を、『告白』のなかで「さすがに紋多は淋しかった。失意を強いられた。彼は、ふてくさって、仲間外れに扱われたことを無視しようと努めた」と「紋多」に代弁させている。「バスに乗り遅れるな」(大井広介)というムードが文壇に漂い、嫉妬と焦燥とが入り交じった複雑な心境のなかで多くの作家は半ば自発的に従軍作家となった。丹羽は作家として昭和一四年一月には、中国大陸開拓の国家的事業に〈文章報国〉する大陸開拓文藝懇話会の設立、そして昭和一七年六月には、大政翼賛会の一翼を担う日本文学報国会の設立に参加した。
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