今年度は『吾妻鏡』における説話伝承的記事のうち、源頼朝をめぐる観音伝承と北条泰時ゆかりの補陀落渡海伝承を取り上げ、両者を結ぶ歴史叙述のあり方について考察を行った。 まず、源頼朝については、治承四年の挙兵以来、彼自身が戦の陣頭に立ったのは、石橋山合戦と奥州合戦のわずかに二回のみであるにもかかわらず、その二回ともに『吾妻鏡』においては彼の持仏・正観音の霊験記事が記される点が注目される。『吾妻鏡』編者が正観音の縁起的記事を意図的に導入することで、頼朝の生涯を正観音の加護のもとにあるものとして描き出そうとした歴史叙述の意識を看取できるである。 一方、『吾妻鏡』において頼朝亡き後の時代に観音に関するめぼしい記事はほとんど見られなくなるが、唯一の例外が天福元年に記される下河辺行秀(智定房)の補陀落渡海伝承である。だが実は、行秀の伝承を将軍頼経に語るのは北条泰時であり、当該伝承は、むしろ一種の「泰時伝説」として捉えるのが適切なのである。頼朝の精神を体現した『御成敗式目』の制定と関わって、当時泰時は頼朝を強く意識して行動しており、頼朝時代の御家人・行秀の逸話を頼経に語る泰時の行為もその一環であった。ただ注意すべきは、泰時のこうした行動自体が虚構を多分に含む「伝説」である点で、そこには『吾妻鏡』編者の、泰時を頼朝の精神の忠実な継承者として描き出そうとする歴史叙述の意識が看取されるのである。さらに泰時が語るのが観音ゆかりの伝承であることから、この「泰時伝説」には、頼朝の生涯を観音の加護のもとに描こうとし、かつ泰時を頼朝の精神の継承者として造型しようとする『吾妻鏡」編者の歴史叙述の姿勢が交差するかたちで結晶しているものと認めうるのである。 本研究は、『吾妻鏡』の説話伝承的記事から、当該伝承の真の意味合いとその背後に潜む歴史叙述の意識とを明らかにしようとした初の本格的考察であり、文学研究、歴史研究の双方において大きな意義を有するものである。
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