朝日新聞社の専属作家だった夏目漱石が『虞美人草』(明治40年)において、ライバル紙だった読売新聞に連載された小栗風葉『青春』(明治38~39年)を模倣していたことは、つとに平岡敏夫氏によって明らかにされている。同じ明治30年代の大流行小説に小杉天外『魔風恋風』(明治36年)がある。『虞美人草』とこれらに作品を比べると、女性の記述がはっきり違っていることがわかる。『魔風恋風』と『青春』は、外見の記述すればそれで作中の役割までもがわかる仕掛けになっているが、『虞美人草』は藤尾の「目」に関する記述から始まる。女性の「内面」を記述しようとする姿勢がはっきり現れている。ところが、そこに「女性不信」という新たな問題が待ち受けていた。 夏目漱石の『こころ』では、「先生」が極度の女性不信に陥る。これまでは、その理由は遺産の管理を任せた叔父の横領という事態を経験したので、その結果人間不信になり、目の前の女性も信頼できなくなったと説明されることが多かった。この説明は作品内ではまちがっていないが、同時代の資料を参照すると、そもそも女性は「矛盾」しており、「ミステリー」だと語られることが多かったことがわかる。「先生」の女性不信は、こうした時代が共有していた「女性不信」、あるいは「謎としての女性」というパラダイムを、同じように共有していた結果だと理解することもできる。 参照する枠組みによって説明の体系が変わってくるのだが、この研究では後者の説明体系を目指している。つまり、「ジェンダー構成」がこういう形で文学テクストに現れているという説明の体系を目指しているということである。今後は、このいわば「女性不信パラダイム」が「進化論パラダイム」とどのように関わっているのかを明らかにしたい。
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