(1)『後二条師通記』に『朗詠』の引用が頻繁になる。その筆致は単なる文飾ではない。特に自然描写は、時令思想に基づいて記録され、なかでも、夥しい雪に関しての記事は豊年に関する意識と結びつく。そもそも自然が規則正しく巡ることが徳政の証であったということを前提として、記述されているのである。加えて、師通の漢文表現引用の動機が、たとえば、寺院の参詣の際や漢籍に触れた際の心の動きにあることは、諷誦文や書序・詩序などの公文書を想定しての表記であると推測される。それは、『小右記』や『権記』の漢籍引用が現実の事件を漢籍の表現で文飾したり、または漢籍に載る事件で再確認したりしているということと、性格を異にする。つまりは、彼等官人が実生活の指針として、実際に中国思想に依拠していたという証が、『後二条師通記』に至ってより明確になっていると確認することが出来るのである。 (2)句題詩と詩序の形式についての論を『江談抄』より取り出し、そのことが示す意味を論じた。句題詩の「題目」「破題」「本文」(「譬喩」)の形式、その形式化に伴って、結句における「述懐」にその内容的発展が遂げられたのが天暦期以降であり、詩序の第二段に「題目」「破題」「本文」(「譬喩」)という題に対する意識がされたのが菅原文時あたりからで、さらにその詩序の自謙部分に個人的は不遇感をしのばせることが出来るようになったのも天暦期であると考えられる。こう考えると、大江匡房の「詩境記」の区分のなかでも、中興した承平・天暦期こそが句題詩形式の確立からは重要な区分であって、詩序もそれに準ずるといえる。この観点からさらに大江匡房が語った『江談抄』に記されている詩話の話者を時期で区分すると、当時の詩や詩序の変遷と重なってくる。
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