『三体詩』の抄物が往々にして、深読みをして、政治的解釈や諷喩の意識を含ませるのは、『三体詩』が総集であるということと、やはり無関係ではなかろう。別集に比べて作者の事情が個々であったり、また不明であったりするために、作品に様々な解釈が可能であったことで初めて可能になったはずである。『三体詩』の作者のなかには僧侶がいたり、隠遁生活を謳った作が垣間見られたりする。その『三体詩』講釈の意義として、義堂周信は、禅道の一助を掲げるが(『空華日用工夫略集』応安二年<一三六九>九月二日)、天隠注序の「禅熟、文熟、詩熟」という詩禅一致の考えは、禅僧が詩を賦すための大儀ともなったはずである。であるからその解釈は過熱していったと考えられる。 五山僧のその詩学の相伝は抄物において過剰な深読み、所謂「底意」を生む。そもそも「底意」が顕著な『三体詩』の「底意」の上限は江西龍派または心田清播あたりと考えられる。自ら付されたと考えられる江西龍派の文集『続翠稿』の注は夥しく、経典や散文からの引用による注はもちろん、漢詩の詩句から換骨奪胎したような注も顕著である。例えば、『三体詩』に「底意」として安史の乱を読み取ることなどは、応仁の乱を体験した禅僧に自然の発想であると考えられるが、乱中の閉塞状態は、さらに詩の贈答等によって彼らの紐帯を増したのではないかとも想像されるのである。「底意」の隆盛の時期は、唱和や詩学の啓蒙に根ざした自注の出現、江西龍派・九淵龍〓・万里集九の時代と重なるからである。のみならず、同時に和歌において「裏説」を解した心敬・宗祇の連歌に、やはり啓蒙的な自注が付されていることとも符合するからである。総じて、抄物などの詩歌の背後を過度に読み取る「底意」「裏説」は、相伝された詩歌学隆盛の果ての現象で、それを自らの作品で実践すれば、自注となる。
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