五山詩文を景物・形式・典拠引用の観点から論じた。そこには、平安漢詩文と明らかに相違する視点を見出すことができる。禅宗の理念に文字を超越する教義があったのであるから、五山詩僧の詩はやはり、そのことに対する大儀から出発する必要があった。であるから、理を通す傾向にあることは自然な成り行きと言えようか。たださらにそこには、禅僧という身分や社会情勢以外に、宋朝での詩論の隆盛を考慮に入れなければならないはずである。平安漢詩に比して、五山の詩は詩を論じることが頻繁であった。その要因も宋詩の依拠にあると考えられる。宋詩の特徴のひとつに、散文的論理性を見出すという捉え方があるが、五山漢詩の特徴も作詩という行為を客観視したことにあると考えられる。そもそも、五山では実際に詩を論じることが日常で行われていたことが推測されるが、それが詩に賦されているところに、五山の理知性があるといえる。中国詩は擬古詩という形式に端を発して、第一句に先代の句を用いるという手法が累々と受け継がれた。一方で、日本漢詩において、擬古詩は定着しなかった。換骨奪胎においても一句をそのまま当てはめるということは、現存する作品を見るかぎりにおいては行なわれていなかった。これが十三世紀以前の中国詩と日本漢詩における相違の一つである。それが五山漢詩には、一句をそのまま借用するという作品が見られるようになる。それは一句をそのまま当てはめるという手法と、句のなかに引用する方法と、一両字を改変して引用するという方法に分けることができる。「底意」を探る傾向にある五山抄物のなかでも特に一韓智翊の「山谷抄」に過度に、王安石非難が現れているのは、まず当時すでに王安石の政策を非難する意識があったこと、その下地のなかで中国注釈に頼りながらも、『山谷詩集』にある政治的表現に対してすでに五山僧が時代を取る傾向にあったということ、加えて、直接には桃源の「蘇詩抄」解釈に王安石を酷評していることが、その要因である。
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