本年度は「北アイルランドの詩的想像力」と題した研究の一年目である。北アイルランドないしアルスターと呼ばれる地域ならびに土地を、詩人を中心とした文人の想像力の展開を通して確認することが主眼である。本年は、北アイルランド成立(1921年)以前の時代、「アセンダンシー」(英国本土からのプロテスタント系入植者の子孫でアイルランド植民地支配時代を通して支配者階級を構成した集団)の系譜に連なるサミュエル・ファーガソンの抱えたジレンマ、すなわち、英国人であり同時にアイルランド人でもあるというアンビヴァレントな意識を探究した論文を書いた。本論は次年度の二つの研究計画-(1)北アイルランドないしアルスターという地域を歴史的、社会的にとらえた論考を書くこと、(2)ファーガソンと同じ、プロテスタント系の詩人、トム・ポーリンについて学会発表ならびに論考を書くこと-につながるものである。 夏の学会発表(「国際アイルランド文学協会」)では、上記ポーリンとシェイマス・ヒーニーという北アイルランドを代表する二詩人(プロテスタント系とカトリック系)のギリシア劇『アンティゴネー』の翻訳を扱った。二人の古典翻訳には北アイルランド紛争が大きな動機として作用する。紛争は英国のアイルランド植民地支配に端を発し、それが宗派間の闘争に発展したが、どれほど両者が対立しても、住民の苦しみや悲しみは、宗派や立場の違いを越えて共有されるものである。その点、それぞれ異なる宗派に属す二人の詩人が、翻訳や評論に通して、アンティゴネーという家族愛、兄弟愛を優先する人物を弁護し、法や国家を象徴する人物、クレオンを非難している点は興味深い。詩人たちの作品が、政治レベルとは違う、紛争解決や和平プロセスに貢献していることを確認した。なお、発表は「劇と北部」(`Drama and the North')というプログラムの一環として組まれ、他の二人の研究者(プラハとベルファストに拠点を持つ二人)とも意見交換もでき、大きな成果が得られた。
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