平成21年度は、ドイツロマン派から19世紀末のホーフマンスタール、ゲオルゲ、20世紀初頭のP.シェアバルトに至る人工庭園の系譜を概観した。以下が昨年度得られた知見である。 ドイツロマン派の時代(ゲーテをも含む、18世紀末から19世紀前半)にはイギリス風景式庭園の爆発的な人気にもかかわらず、文学においては、たとえば、イギリス文学とは異なって、風景式庭園は好まれない。その理由は、イギリスでは現実の自然の発見の前に風景式庭園が導入されたのに対し、ドイツではそのような媒介なしで「人工」に対する対立概念として「自然」が発見されたからであろうと考えられる。(たとえばA.v.ハラーによるアルプスの自然美の発見。長編詩「アルプス」1729年を参照のこと。) ドイツロマン派ではノヴァーリスを始めとし、整形式の人工庭園が「芸術」Kunst/artの象徴として好まれる。この系譜は、写実主義、自然主義の勃興とともに一旦は姿を消すが、19世紀末文学において、とりわけゲオルゲにおいてそのもっとも純粋な形で再帰する。(「地底の王国」『アルガバル』所収、1891年) それに対して再び「自然」への回帰を祈願する声が上がる。ホーフマンスタール「私の庭」Mein Garten(1891年)である。この詩は恐らくゲオルゲの文学姿勢に対する拒否を表明したものである。こうして18世紀末Fr.シュレーゲルとシラーの間で議論された「自然」と「人工」の対立が再び顕在化する。 この対立に対してP.シェアバルトは、新プラトン主義、神秘主義思想に依拠し「自然」と「人工」の対立の基底に唯一者としての自然を想定し、その文学表現としてガラス建築、ガラスの人工庭園を造形した。(「フローラ・モール」1912年)シェアバルトにおいてドイツ近代文学における庭園モチーフは、その極限に達したように思われる。
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