研究課題/領域番号 |
20520286
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研究機関 | 大阪教育大学 |
研究代表者 |
亀井 一 大阪教育大学, 教育学部, 教授 (00242793)
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キーワード | ドイツ文学 / ドイツロマン派 / 視覚 / K・Ph・モーリッツ / H・v・クライスト / C・D・フリードリヒ / 描写 |
研究概要 |
クライスト(Heinrich von Kleist)とモーリッツ(Karl Philipp Moritz)のテクストを手がかりにして、レッシングの『ラオコーン』論以来、視覚イメージと言語の懸隔が意識化されてゆく過程を追跡した。モーリッツは、『芸術作品はどの程度まで記述されうるか』(1788/89)の冒頭で、ピロメラ神話を参照しながら、言語による再現の可能性を考察している。舌を引き抜かれたピロメラは、織物を指し示すことによって、なにが起こったのかを再現した。再現は、言語による説明ではなく、再=創造によって可能になるというのがモーリッツのテーゼである。ところで、今、感覚という観点から、この論文を読むと、視覚イメージが決定的な役割を果たしていることが判る。モーリッツによれば、言語の美も「息の痕跡」にあると言われる。視覚イメージは、直裁で切実な経験であり、言語の読解に先立っている。 クライストは、晩年に『フリードリヒの海の風景を前にした感想』(1810)という記事を書いているが、ここで問題になっているのは、フリードリヒの『海辺の僧侶』そのものではなく、絵とそれを観る記者の関係だった。第一に、記者は、前景に「枠」のほかなにも見えないと書くのだが、しかし、アウグスト・ランゲン(August Langen)によれば、「枠」こそは、18世紀の「直観形式」であった。つまり、記者の当惑は、視覚イメージに既存のシェーマが対応していないということに由来しているのである。第二に、この記事に書かれているのは、絵に描かれた情景ではなく、その情景を再現することができないという体験なのである。「目蓋を切り取られたような」という有名な一節は、直接には視覚イメージの喪失の比喩であるが、ピロメラ神話を参照するならば、言語による再現不可能性を暗示していると読むことができる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
23年度に発表した『1800年前後におけるエクフラシスについて』をもって、当初に計画した、ジャン・パウル、ヘルダー、モーリッツ、クライストについて一通り考察することができた。しかし、特にヘルダーのバウムガルテン研究については、さらに探究する余地がある。
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今後の研究の推進方策 |
24年度は最終年度にあたるので、これまでの成果のまとめが中心になる。さしあたって、公共性研究会での発表は確定しているが、その他にも、論文発表、学会発表をめざす。論文『ジャン・パウルは死にどのような形をあたえたのか』は、第三報を出し、完結させる。前年度からの課題として残されたヘルダー研究についても一定の結論を出したい。『批評の森 第4集』を手掛かりにテーマに関するヘルダー自身の見解を明らかにするだけではなく、ジャン・パウルによるヘルダー受容も視野に入れながら、1800年前後の文脈の中でヘルダーの関心を探る。
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