ポール・ヴァレリーが1937年から1945年にかけてジャン・ヴォワリエに送った千通ほどの手紙は、現在、フランス国立図書館に保存されていて、未だ活字化されていないが、これらの書簡を平成20年度の2度にわたるパリ滞在でほぼ完全に筆写することができた。この資料をもとに、ヴァレリー最晩年のエクリチュールとエロティシズムとの密接な関係を解き明かすための基礎的な資料を入手できたことになる。 平成20年度の研究は、主に、この書簡集に表明されている主要な思想的傾向とヴァレリーがヴォワリエに捧げた詩集『コロナ』との関連性を探ることに向けられた。その結果、まず、愛する対象の存在と不在をめぐる弁証法のなかに、フランス語としての表現の限界を超えるような意欲的試みが随所に見られることが判明した。次に、書簡ならびに詩集においてキーワードとなる「tendresse」(優しさ、柔らかさ)を、「ジェノヴァの危機」以来ヴァレリーの思考的定数ともいえるムッシュー・テスト的態度と対比的に考察することによって、従来の学会における見解を更新できるような地平を開くことができた。つまり、ここでは、情動的な嵐に対抗すべく作りあげたテスト的「固さ」とその武装解除としての「優しさ、柔らかさ」が問題になっていることを明示した。これは、ヴァレリーの思想全体をどのように位置付け、解釈するかという場面において、きわめて大きな論拠となるはずである。最後に、ヴァレリーがこうした「優しさ、柔らかさ」へと自らの情動的態度を変換しつつ、「愛の子ども」という形で作品の作成を構想していたことを、演劇『我がファウスト』の分析から解き明かそうとした。『我がファウスト』を構成する「ルスト」 と「孤独者」という性格の違う二つの作品の対応関係の分析をもとに、「優しさ、柔らかさ」と「固さ」の諸相を今年度も継続しておこなっていく所存である。
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