研究計画の最終年度として、最も中心的な課題である古教会スラブ語福音書の言語から古ロシア年代記『過ぎし年月の物語』の言語への影響関係について明らかにすることを目指した。具体的には平成22年度に「マルコによる福音書」を対象に行った予備的調査に続き、指示代名詞sь「近称」、оnъ「遠称」、tъ「中称」の使用を軸に福音書の言語を分析した。その結果、四福音書全体にわたり以下が確認された。 1) sьはギリシア語houtosを翻訳し、「登場人物の会話」や「イエスの説教」中で直示的に使用される。また先行文脈中で語られた事件や事柄の内容を全体として指すためにも使用されるが、明示的な先行詞を持つことはなく、その意味ではこの用法での使用は照応形と呼ぶことはできない。2) оnъはギリシア語ho deを翻訳し、「оnъ zhe+動詞」という形で「語り」のテクストに現れる。先行する文に現れる斜格目的語を先行詞とする照応形である。3) tъはギリシア語autosあるいはeceinosを翻訳し、テクストのタイプについて特別な分布を持たず、どのタイプのテクストにも現れる。照応形として先行詞をとるが、先行する文の主語が先行詞になるか斜格目的語が先行詞になるかについては制限がない。その意味で中立的な指示代名詞であり、現代語の3人称の人称代名詞に最も近い。 以上は、代表者が従来古ロシア年代記『過ぎし年月の物語』の言語を観察して得た結果と一致する。古教会スラブ語から古ロシア語への直接的な影響があったのか、両言語がそれぞれ独自に同じ特徴を示すのか、いずれかを証明し確定することは困難である。しかし古教会スラブ語がスラブ世界最古の文章語として860年代に成立し、ロシア文章語はそれよりも100年以上後に成立したことを考えるとき、古教会スラブ語福音書のテクストが、ロシア年代記の言語に影響を与えたことは否定できない。
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