漢方や鍼灸などの伝統医学は中国を起源とするが、日本では独自の発達を遂げた。とりわけ腹診は、腹部の触診によって病気の全体像を把握する診断法で独自性が強いが、その歴史的経緯は十分に解明されていない。本研究の目的は、国内における漢方腹診書および腹診を多分に含む鍼灸流儀書の現存状況を調査し、現存史料を書誌学的に分析し、日本腹診史を解明することである。 今年度は、全国の図書館等の現地調査によって、数点の新史料の発見にいたった。なかでも、天理大学附属天理図書館の明版『素問糾略』、名古屋市蓬左文庫の『松甫集』は重要である。『素問糾略』は、近世日本医学に絶大な影響を与えた朱丹渓の著作で、しかも中国で散逸した佚存書であった。これによって、腹診を育んだ時代の思想的風土の一端が明らかになった。『松甫集』は『救詳〓』という未知の鍼灸流儀書を含んでいた。これは、腹診を体系化して鍼師に広めた無分流家元の流儀書で、日本腹診史の糸口となりうる史料であった。また、九州国立博物館の『伝尸病肝心鈔』は、長らく所在不明となっていた古巻子本で、重要文化財に指定されている。これは、三尸(道教における体内に巣くう魔物)の退治法を論述したものだが、日本人の腹に対する特別な意識を準備した史料の一つと考えられる。 史料の書誌学的分析は、九州大学附属図書館医学分館の『五臓之守護井虫之図』、北里大学東洋医学総合研究所の〔室町時代針灸書〕、名古屋市蓬左文庫の『図法師灸経』を対象に行った。その結果、既知の流派の成立以前にプレ流派的な人脈や学統の存在が確認され、無名の医家・鍼師が腹診発展の担い手であることが示唆された。これまで、調査対象の上限を鎌倉期としていたが、〔室町時代針灸書〕の分析を通じて平安期の『医心方』の影響が等閑視できないことが示され、今後は平安期の史料も調査対象とする方向で検討している。
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