調査は、徳島県の藍商三木家の調査を進めるとともに、西宮市立郷土資料館で摂津綿作地帯の補足調査を行った。また香川県立文書館、倉敷市史編集室、山口県立文書館および栃木市教育委員会などの関連調査を行い、研究対象地域の拡充をはかった。 分析は、前年に論文化した栃木県大平町西水代田村家の帳簿のデータ化を進めたが、これについては史料が大部で論文にいたらなかった。また徳島県の藍商三木家の史料のデータ化は仕入れ帳について完了したので、これをもとに藍特産地の肥料商と市場の動向を分析した。藍は阿波藩の特産品として、全国市場で中枢的地位を占めた。その作付けには、木綿以上に魚肥が欠かせないものであった。藍は藍師が農民から藍葉を集荷して藍玉に加工したが、藍師は農民に春先に魚肥を前貸しして、藍葉を集荷した。こうした藍師・藍商だった三木家は江戸に出店を持ち関東に藍の売り場をもっていたため、直接文化後半には3、4千俵の干鰯を関東を中心に買い付けていた。文政期になると藩の設置した撫養や徳島の干鰯問屋からの仕入れが多くなり、干鰯取粕へと変化した。天保期後半からは新興の買い積み経営を行う廻船問屋と結んで、仕入れをおこなったが、幕末期には藍葉の集荷から手を引き、藍玉集荷に切り替えたため、肥料商売を縮小していった。その背景には群小の藍師や在村肥料商が成長し、地域市場が形成されていったことがあった。かって戸谷敏之指摘した藩や商業資本の高利貸し的吸着と商品生産農民の困窮化という枠組みだけでない様相が明らかとなった。
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