明治末から大正中期にかけて、柳田国男が企図した地方の郷土研究者をいかにして組織化するか-という課題について、2つの視点から接近を試みた。 まず第1として、当該の時代、柳田が編集した最初の雑誌である『郷土研究』の投稿欄・会員欄から頻繁に投稿した上、柳田と交流のあった地方研究者を投稿の文面、及び柳田の言及度を基準に数名ピックアップした。次に第2として、大正期後半から柳田国男に師事し、その影響下にあって地方研究者との連絡調整に従事した橋浦泰雄の残した文書(「橋浦泰雄関係文書」以下、「文書」と略す)所収の書簡類で、地方研究者からの来信を中心にデータ・ベース化したものの中から橋浦と密接に交流した地方研究者を10数名割り出し、第1で得られた群と比較した。その結果、数名の例外をのぞいて、ほとんどの地方郷土史家が重複していることが判明した。すなわち、柳田の郷土研究の支持層は、(1)明治末の段階において20代から30代の比較的若い世代だったこと、(2)当初受けた柳田の影響を継続的に維持する環境にあったこと、を析出した。その上で、大阪の沢田四郎作、信州東筑摩郡の胡桃澤勘内など、特徴的な郷土史家の所蔵資料を探索し、柳田・橋浦からの書簡を閲覧する作業を通じて、彼らの指導が当地の実情に即したものだったこと、なおかつそれらの拠点形成によって、求心力のある在地の研究組織形成を志向していたことを検証した。 時代的には、これらの現象が日露戦争後の地方改良運動下で上からの地方統制が進む過程と並行して行われたことを重視し、国家原理による地方研究とは別個に、これら民俗という経験的な事象を扱う組織化の運動が、まさにその土地の経験に合わせて進められていたと位置付けた。
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