組織面から見た時、柳田国男の民俗学はしばしば、地方の郷土史家を従属的に扱い、そこから民俗資料を吸収して、独占的にそれらを分析する構造を持っていたと指摘を受けることが多い。しかしながら、同時代の資料、特に『郷土研究』並びに「橋浦泰雄関係文書」などを子細に、かつ長期的な視野のもとで検証すれば、柳田の研究体制とは、その土地々々に自生する郷土研究会の特質を尊重し、全国組織という体裁をとったとしても、それは在来の研究者・研究会を横から繋ぐ、という様式を旨とするものであり、必ずしもトップダウン型の組織運営が目指されたとは言えない。また、大正中期に『郷土研究』に投稿し、柳田と接触を持った郷土史家は、その後、継続的に柳田の主催する郷土・民俗学に関わる雑誌に投稿しており、すすんで長期にわたって柳田と交流を保とうとしたことが分かる。 『郷土研究』とほぼ並行して運営された民俗談話会「郷土会」のメンバーが共通して国家主導のもとで郷土を捉えようとする地方改良運動に強い批判を抱いていたことを確認すれば、実証と経験的思考を徹底する柳田民俗学は、その特色を組織の域にまで拡大して援用し、その効果を挙げたといえよう。
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