研究概要 |
本研究は,18世紀前半の清・露のキャフタ条約をモンゴル帝国崩壊以後の中央ユーラシア史の中に位置付けることを目的とする。前年度までのキャフタ条約締結過程の研究を受けて,本年度は,キャフタ条約締結後の,清・ジューン=ガル関係の研究に軸足を移した。まず,出版間もない大部な史料集である『軍機処満文準〓爾使者〓訳編』の内容の整理・分析を行った。この史料集は多くの未公刊満洲語根本資料から成る。夏期の北京の史料館における史料調査では,この史料集に未収録の関連満洲語史料を収集した。この時の調査の情報も盛り込んだ形で「『軍機処満文準〓爾使者〓訳編』について」と題する史料研究論文を執筆した(掲載は決定しているが雑誌はなお未刊行)。その後関連史料の分析を行い,雍正末から乾隆初めにかけての清とジューン=ガルの講和交渉について研究を進めたが,概ね次のようなことが明らかとなってきた。ジューン=ガルとの戦争を経て講和交渉の再開を決意した雍正帝は,当初キャフタ条約締結交渉直前のジューン=ガルとの交渉の線に沿った国境画定を目指した。ところが,まもなく雍正帝は急死,新たに即位した乾隆帝は,明確な国境画定という形に固執せず,曖昧な形での講和を受入れた。乾隆初めの講和が一般的に「牧地の画定」と言われるのは,このような形での交渉の変質が背景にあったと言いうる。しかしながら,最終的な清・ジューン=ガル間の貿易の取り決めが,ロシアとの関係を強く意識したものとなっているように,清・ジューン=ガルの講和の確立は,キャフタ条約成立を背景としたものだったことは間違いない。これまで,この時期の三者の関係を実証的に詳細に扱った研究は少なく,以上の成果はこの分野に新たな知見を加えると考える。なお,研究を進める中で,当該時期のジューン=ガルとロシアの関係の解明がなお不十分であることを再認識し,この部分を補強する形で次年度に論文として発表したいと考えている。
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