(1)国共産党の翼魯豫区根拠地を中心に、毛沢東像の農村への浸透過程について検討した。同区における毛像は、前線の不安定な情況を受けて、個別家庭の神としてだけでなく、会門的結合で使用された盟誓における天の代替としても使用され、党・農民の権力としての性格が強調された。毛の提唱になる「為人民服務」の自己犠牲の精神は、伝統的な民本思想、天命思想に親和性を持つもので、中共は農民に伝統文化の権威を付与し、その正統観念を利用して、権威を高めようとしていた。毛の最終的な権威の確立とともに、肖像の形式の統一が進み、1946年からは、厳粛さを強調する正面像が、農民を対象に神像の代替とされたのに対し、49年以降は、親しみやすさ・モダンさを強調する着帽・微笑の肖像が都市民を意識して多用された。これらは、大衆動員・階級闘争を通じた権力樹立と、聯合政府の政権構想という中共権力の二重性にも対応している。 (2)日本傀儡政権と中共根拠地の記念日活動と民俗利用、象徴の使用に関する比較を行った。日本傀儡政権の記念日活動と象徴は、日本の象徴に従属しながらも、次第に主権国家としての体裁を整えつつあった。傀儡政権が国民政府の記念日の形式を重視するようになった頃、中共は、独自の記念日と象徴を強調するようになり、傀儡政権に比して個別家庭の農暦の民俗を有効に組織した宣伝・動員活動が展開された。 (3)北京政府期における立憲改革議論を巡る中央-地方関係の編成において、熊希齢内閣の「政府大政方針宣言」と日本人顧問の有賀長雄の構想を検討した。これらは、ともに中央における行政府の権限強化をめざしながらも、前者が省の廃止を主張し、明治憲法体制の中国への移入を主張する日本の政治家、法学者らの支持を得たのに対し、後者は、省制の維持と省議会の権限強化という形で、地方の発展の方向を提示しており、中国の実情に応じた国家構想を展望していた。
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